――病院――…06/06/30



 見上げてみればすでに日は暮れていた。
 夜更けまであと二時間もないだろう。それなのにこんなにやきもき
している自分に泣けてくる。それでも、きっと彼女の方が大泣きして
いるのだろうから、その無事を祈ることしか出来ない。
 彼女に出会ったのはもう五年も前で、指輪と永久の愛の誓いを交わ
したのは二年前、そしてそんな彼女に新しい命が宿ったのは十ヶ月前。
明日が出産予定日だったため、今日は定刻に帰宅しようとしたその時
に、病院から電話が入ったのだ。
 産まれそうですよ、と。

 こんなに長い時間頑張っている彼女は無事か? 赤ちゃんのへその
緒が絡まって出てこられなかったりするんじゃないか? そういえば
昨日あまりにいとおしくてお腹を丹念に撫で回してしまったけれど、
それが原因だったらどうしよう? そもそもあまり動きに乏しい赤ちゃ
んらしいけれど、自分に似てしまって虚弱だったらどうしよう? 
ちゃんと泣けるだろうか? ちゃんと生まれてこられるだろうか?


 考えたところでどうしようもないのに、ぐるぐるしてしまう。ただ
無事であればいい、と誰でもいいからすがりたくなる。沈痛な色合い
の無表情なソファとか、赤い色のランプが六時間ついたままの分娩室
の入り口のライトとか、そういうどうしようもないもの全てに願かけ
したくなる。この病院にあるもの全てが、彼女とその子どもを守って
くれますように、と一つ一つに強い視線を送りながら祈る。とうとう
立ち上がって紺色の味気無い車椅子に拝み倒そうとした瞬間に、泣き
声が響いた。

 慌てて立ち上がって椅子の支柱に足を派手にぶつけた。分娩室から
出てきた医師が、元気なお、で言葉を止めて、大丈夫ですか、と言い
直した。
「大丈夫、だいじょうぶですから」
 脛を押さえながら言う。
「元気な男の子ですよ、おめでとうございます」
 医師は微笑む。ひと仕事終えたあとの脱力感を表現した笑みなのか
もしれなかった。なのに、わかっていながら泣けた。彼女も赤ちゃん
も無事ですか、本当ですか、と何度も訊こうと思っていたのに言葉が
つまった。
「旦那さん? 足ですか? やっぱり診察しましょうか?」
 いやいやと、そんな必要はない、と言ったつもりだったが、言えた
のかはよくわからない。ただ無事で良かった、と思った瞬間、膝の力
が抜けてしまった。
 あとから聞いたことだが、子供の顔を見る前に泣いた父親ははじめ
てだったと言う。

 病室には彼女が疲れた顔をして横たわっていた。
 その横に眠る自分の息子に、なんだか自分の面影を見てしまって、
嬉しくなる。
「なに気持悪い笑顔してるの? もしかしてまた泣いてたの? 言っ
たでしょ、なにも問題ないんだからちゃんと生めるって」
 彼女はいつもよりゆっくりとたしなめる。
「もう、お子様を二人も面倒見るなんて嫌よ? しっかりしてね、パパ」

 その笑顔に、こらえていたのにまた泣けてしまって。
 ありがとうありがとうと連発して、そのまま床にへたりこんだ。


【アトガキ】
生命の誕生という感動的な場面をコメディにする人でなしですこんにちは。
「病院」をお届けいたしました松江です。
携帯で打ち込んだものに改行等の手を加えたもので、書下ろしです。
日本のお父さんはこうやって常に心配性です。
お母さんは、こうして少しずつ家庭内で地位を獲得していきます。
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